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東北版「歴史戦」を巡る錯誤について

   

会津藩に正義があったと1面で報じる地元紙

私の家では福島民友新聞を取っているのでこの記事が1面トップになっているのを読んだのですが、これは東北版「歴史戦」ではないかと思いました。

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郷土史を語るとどうしても郷土贔屓や判官贔屓になってしまうものです。私もそういう面は多分にあります。そして東北に住む者としての当時者性もあるので、郷土史を否定的に語るのは郷土愛が足りないと憚られます。しかし、そうであってもなお語りたいと思ったのでここに書いていきます。

近代史と勝者・敗者の視点

紙面によると次のように地元紙の社長が挨拶していました。

冒頭、主催者代表の五阿弥宏安福島民友新聞社社長が「近代史では勝者の視点から歴史が語られるが、敗れた側に正義はなかったのか、改めて戊辰戦争と明治維新を考えてみたい」とあいさつした。

近代史は勝者の歴史で語られるという話は第2次世界大戦の日本の敗戦と同じですね。ポツダム宣言を受託した日本は戦勝国による東京裁判で戦争犯罪が裁かれました。しかし負けた側にもアジア解放や自存自衛などの大義があったと考える人々が近代史の見直しを求めているのが昨今の歴史修正主義を取り巻く状況なのかなと思います。

奥羽越列藩同盟も会津藩の自存自衛の戦いとしての側面もあったし、幕府への忠義や東北の独立性を巡る戦いでもありました。プロイセンとの同盟が成立していれば「こうすれば勝てた戊辰戦争」のような思考実験も可能でしょう。

しかし、一方で会津は松平容保が謹慎して以降も軍備の増強を続けて戦争を準備していました。もはや既に大政奉還も行われているし、会津や東北の抵抗は日本の内戦を長期化させ、列強の植民地にされかねない危うさを孕んだ駆け引きであったことは考慮しないといけない点です。天下万民のためにも戦闘を長期化するべきではなかったと思います。会津以外の藩にとっても仙台藩士と福島藩士が世良修蔵を惨殺してしまったのは悲劇であったと思います。

やや時期がずれますが幕末期にイギリス陸軍が対日侵攻作戦を立案していたことは以前の記事で書きました(参考文献:幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏)。戊辰戦争はこのような列強の思惑が渦巻く中で行われた内戦です。

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そして忘れてはいけないことは、奥羽越列藩同盟には強者の論理が存在したことです。同盟に参加していた諸藩は決して対等な関係ではありませんでした。会津藩と仙台藩という2つの雄藩に近接しているためやむなく列藩同盟に加わった藩も少なくありません。また戦費調達を目的として小藩への供出強要(事実上の脅迫)も行われていました。このような同盟内の不協和音は、火器装備率以外の戦線が早期に崩壊する大きな要因となりました。

福島藩が降伏したとき、仙台藩が福島城の城下町に火を放って町火消しが必死に消し止めました。相馬藩が降伏しようとしたとき、列藩同盟の軍勢は相馬の中村城を取り囲み、降伏しないように圧力を掛けました。会津戦争の時には農民が新政府軍側に立って蜂起しました。

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敗者の視点での史料の見直しや事実関係の見直しもまた重要でしょう。歴史の因果関係の見直しも定説を神話化することなく常に不断の対話が求められる部分だと思います。しかし、それを「こちらにも正義があった」とするお互いの正義をぶつける流れとしていくのはあまり建設的ではないように思います。それは物語や小説の中では美しいですが、歴史検証で持ち出すのは事実認識を遠ざけてしまうことになりかねません。勝者にも敗者にも正義があり、同時に醜悪な部分もあったのです。それ以上のなにものでもありません。

英霊の死を無駄にしないために

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 徳川氏は「江戸時代に築かれた日本の基礎」を演題に、平和で豊かな江戸時代を解説、現代に江戸の精神を生かすべきだと提言。石川氏は「戊辰戦争の漢詩」と題し、会津藩主・松平容保(かたもり)や会津藩士らが詠んだ漢詩を紹介し、作者の気持ちを想像してほしいとした。

戊辰戦争で戦場の露と消えた英霊達を弔うには何が必要でしょうか。

それは英霊達の死が現代の私達の生活へと繋がっていることを明らかにすることだと思います。敗者の正義を強引に復活させてどちらが正しいかを比べることではありません。

「東北地方」は全国の地方名で唯一民間から提唱された呼称で、その由来は自由民権運動からと言われています。自由民権運動の活動家には藩閥政治で政治参加の機会を失った奥羽出身の士族や奥羽に拠点を置く政治結社が多数参加していました。彼らは西南諸藩への対抗概念として「東北」という呼称を積極的に使い、東北を自由の地とすることや、東北から日本を変えていくことを喧伝しました。現代の東北そして議会制民主主義の礎です。

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そして東北は戊辰戦争で新政府軍に抵抗して敗北した貧しい地域として明治・大正・昭和を生きたこともまた事実です。日本の近代化が進められた時もインフラ整備は東北よりも北海道が優先されて、その後は朝鮮、満州が優先されました。北海道開拓や満蒙開拓義勇団に東北の士族や農家出身が多かったのも必然かと思います。東北の寒村として迎えた近代ー。しかし、戦後になって悲願であった町興しの話が故郷に舞い込んできました。それは東北沿岸部を巨大な電源地帯として再開発するプロジェクトでした。

歴史はいつも理想と悲劇の連続ですが、この歴史の因果の中にかつての奥羽越列藩同盟の戦いを位置づけて現代に繋がる道標をつけていくことが、過去の戦士達へのせめてもの弔いであるように思っています。