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相馬高校の中野磐雄先輩と日本で最初の神風特攻隊

   

日本で最初の神風特攻隊に志願した相馬高校の先輩

神風特攻隊が話題になっています。私が神風特攻隊と聞いて思い浮かべるのは、相馬高校(旧制相馬中学)の中野磐雄先輩です。フィリピン決戦の時に日本で一番最初に編成された神風特攻隊(敷島隊)に志願した先輩です。

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(中島磐雄先輩)

原町飛行場と中野磐雄先輩

中島磐雄先輩は1925年1月1日に、現在の南相馬市原町区で生まれました。原町小学校・相馬中学(現在の相馬高校)へと進学しました。

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(原町飛行場)

南相馬市原町区の雲雀ヶ原には、1940年から陸軍の原町飛行場が設置されていました。相馬野馬追のメインイベントである神旗争奪戦も雲雀ヶ原で行われますが、その西隣の広大な敷地が原町飛行場があった場所で、陸軍の飛行訓練が行われていました。

中野磐雄先輩もその原町飛行場の兵士達の姿を見てパイロットになることを決意し、1942年4月海軍土浦航空隊飛行予科練習(予科練)に入隊しました。1943年に海軍のラバウル基地防衛などを担当していた三沢海軍航空隊に入隊します。1944年にサイパン・グアムが陥落して絶対国防圏が崩壊。中野先輩は第201海軍航空隊に転属となりました。

第201海軍航空隊と神風特攻隊

第201海軍航空隊もラバウルの防衛を担当していた航空隊ですが、戦局悪化でラバウル防衛が絶望視されてきたため、トラック島およびサイパン島へ移転しました。マリアナ沖海戦の敗北でサイパン島も陥落したためパラオ諸島ペリリュー飛行場へと再度移転しました。この時に一部要員を訓練のためフィリピンのダバオへと移動させています。

その後、連合軍がペリリュー島に上陸、ダバオを空襲し、第201海軍航空隊の航空戦力は壊滅しました。しかし、捷一号作戦(フィリピン決戦)のために訓練中だった要員を中心に航空隊が再度結成されることになりました。

この頃、フィリピン防衛を担当していた第26航空戦隊司令官の有馬正文が、「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と従軍記者に話し、自ら一式陸攻に乗り込んで敵艦へ体当たりするため出撃して戦死するという事件が起きました(戦果不詳)。中野磐雄先輩の第201海軍航空隊も有馬正文の特攻の先導役を務めています。

かねてより特攻を計画していた第一航空艦隊の大西瀧治郎中将は、この有馬正文の戦死を受けて第201航空隊を訪れました。会議を開かれ、大西瀧治郎は「空母を一週間位使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250㎏爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」という提案を行いました。

この会議に参加していた第201航空隊の玉井浅一副長は、日本で初めてとなる航空機による特攻隊の志願者を集めました。

この志願者の中に、中野磐雄先輩がいました。

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(中野磐雄先輩)

敷島隊

特攻隊は神風特攻隊と名付けられました。本居宣長の「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」という歌に因んで、日本で最初の神風特攻隊は敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊とそれぞれ呼ばれることになりました。中野磐雄先輩はその中でも先陣である敷島隊に所属することになります。

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(敷島隊の訣別の水盃。左から2人目が中野磐雄先輩)

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(敷島隊の出撃)

中野磐雄先輩ら霧島隊は1944年10月20日に初出撃しました。しかし敵艦隊を発見できず基地へと引き返しました。その後も連日出撃を続け、10月25日に米護衛空母セント・ローを発見して特攻を行い、撃沈させました。この攻撃で中野磐雄先輩は帰らぬ人となりました。

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(霧島隊の特攻を受け炎上する護衛空母セント・ロー)

中野磐雄先輩が家族に宛てた最後の手紙が残されています。

お父さん、お母さん。私は天皇陛下の赤子として、お父さんお母さんの子として、立派に死んでいきます。喜んで参ります。では、お身体を大切にお暮しください。

南相馬市の夜の森公園には碑文が建てられています。

碑文

中野少尉名は磐雄、大正十四年原町に生る 父は松太郎 母はひでよ
昭和十七年 報国の志をたてて土浦海軍航空隊に入る。やがて戦況逆転国運の危殆に頗するを見、概然身を以て弾丸として壮烈なる戦死を遂げたり
時に昭和十九年十月二十五日未明 享年十九歳 二階級特進海軍少尉に任じ その戦功を表彰せられたり、小中学校同級の友人追慕の情に堪えず相謀りて記念碑を建て永く忠烈を伝えんとす

文学博士 平泉澄

私が相馬高校に入学した時は、最初の全校集会でこの中野磐雄先輩の話を聞くことになりました。相馬高校の放送局や出版局(新聞部)も中野先輩についての映像や出版物を過去に制作しています。

原町飛行場と特攻隊

神風特攻隊の初陣で戦果を上げたことから、その後の海軍は神風特攻隊を多数編成して特攻攻撃を展開していくことになりました。中野先輩を送った第二○一航空隊玉井浅一副長は、「お前たちだけ殺すようなことはしない。必ず俺たちも後に続くから」と特攻隊員を次々と送り出していきました。

南相馬市の原町飛行場も陸軍の特攻隊の訓練場や編成拠点として使われるようになりました。陸軍が編制した特攻隊のうち、原町飛行場からは八紘飛行隊第五隊の鉄心隊、八紘飛行隊第八隊の勤皇隊・八紘隊第十一隊の皇魂隊が編成されフィリピン戦線に投入されました。その後、本土防衛のために原町飛行場から第四五振武隊の神州隊、第六四振武隊の国華隊が編成されて沖縄で特攻を行いました。

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(原町飛行場 第六四振武隊の国華隊と地元の女学生)

南相馬市の陣ケ崎公園墓地には碑文が建てられています。

碑文

この地は曽て陸軍原町飛行場のありし所 昭和十五年以来ここに育成せられし幾多の勇士は 国難打開の為に敢然として各地に戦ひ やがて戦局日に非なる 臨んでは進んで特攻隊として勇名を轟かし敵の心胆を寒からしめたり 不幸事志と違ひ勇士再び還らず飛行場も亦空襲にさらされ土地の風貌遂に一変するに至れり今や時移りて二十六年 往時を回想して悲痛言ふ所を知らず有志相計りて碑を立て 戦没の雄魂を慰むると共に 曽て経験せる軍民協力一和の記念とし 謹んで祖国永遠の栄光を祈る

昭和四十六年八月十五日  全国七百有志一同

 

玉井浅一のその後

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(玉井浅一)

「お前たちだけ殺すようなことはしない。必ず俺たちも後に続くから」と中野磐雄先輩ら特攻隊員を送り出していた第201航空隊の玉井浅一副長はその後どうなったのでしょうか。

第201航空隊は多数の特攻機を送り込んだことやフィリピン海戦で連合艦隊が壊滅したことにより戦力を消失しました。1945年1月に第一航空艦隊(第201航空隊)はフィリピンから台湾に撤退するよう命令が下り、玉井浅一も台湾へと脱出しました。

しかし、フィリピンには1万5千人の第一航空艦隊の搭乗員が脱出できないまま残されており、取り残された隊員はクラーク地区防衛部隊として再編されて陸軍の指揮下でフィリピンの地上戦を戦うことになりました。

台湾に移転した第201航空隊は第205航空隊として再編されました。玉井浅一はその司令に就任しています。第205航空隊は台中を基地として、沖縄防衛のために多数の特攻機を送り出しました。終戦直前にはこの第205航空隊も残された機体はごく僅かになっていました。

戦後、玉井浅一は予備役へ編入され、その後、仏門に入り僧侶となりました。愛媛県松山市の日蓮宗瑞応寺の住職となり、天寿を全うしています。

玉井浅一は戦後になって霧島隊が結成されたときの様子を、全員が目を輝かせて挙手をして志願者が集まったと回想していますが、当時の隊員の証言では玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだためしぶしぶ手を挙げた者が多かったと言われています。

anond.hatelabo.jp

「所感」

「特攻隊」と聞いて私がもう一つ思い浮かべるのは、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員の上原良司が残した「所感」です。00年代前半にFlash動画にもなったので憶えている方も多いと思います。戦争について考える時はこの遺志を忘れないようにと思って、時々読み返しています。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。

権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。

真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。

こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。

飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

私の所感

相馬高校にかつて祖国のために自ら命を投げ打ってまで戦った先輩がいることを誇らしく思う一方で、当時の政府や軍の上層部への怒りは消すことができません。

きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

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