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日本の原爆開発 ー朝日新聞・帝国議会・調査団・昭和天皇ー

   

戦時中の日本で原爆はどのように理解されていたのか

以前の記事では軍の機密資料を元に、第二次世界大戦中の日本の原爆製造計画、陸軍の二号研究と海軍のF研究について解説しました。

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今回の記事では「戦時中の日本で原爆や原爆開発がどのように理解されていたのか」を朝日新聞・帝国議会・広島調査団・昭和天皇などのキーワードで検証していこうと思います。

1944年の朝日新聞に登場する原子爆弾

1944年3月29日、朝日新聞は「科学戦の様相」という特集記事を出しました。この記事の中で陸軍中佐の佐竹金次が原子力の原理や原子力を使った兵器について解説しています。

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(佐竹金次)

佐竹金次は1943年にドイツから潜水艦に乗り込んで日本に帰還した人物です。当時のドイツの原爆開発に関する最新鋭の知識を持っていました。

朝日新聞 1944年3月29日 「近代戦の様相」

近時、ウラニウムから特殊原子量のものを抽出し、これに宇宙線をあてることにより非常なエネルギーを出すといふことをある学者がやつた。これがいま世界の研究の中枢になつてゐる。かういふものが完成したとすれば大変な事になる

僅か一グラムぐらゐのもので大きな戦艦が一千キロも二千キロも運転できる。また飛行機に使へばガソリンが要らないから相当距離も飛行できるやうになり、爆弾の搭載量もうんと増すことができる。

同日の朝日新聞の「科学新語」という囲み記事では、原子力を爆弾として利用することができると解説しています。

科学新語

かうしてラジウムは何千年もの間に他の元素に変り、その間絶えず放射線を出してゐるが、もし原子核が破裂すれば一時にその力が出ることになり、それは熱に見積ると石炭の何千万倍である。ところが大戦直前、独逸の学者は放射性元素のウラニウムを極く微量で原子核を破裂させることに成功した、もし多量でもできるとすればマッチ箱一つのウラニウムでロンドン市全体を壊滅させることができる。独軍が将来、報復に用ゐる秘密兵器は、あるいはこれではないかと英国では戦々恐々としてゐるさうだ。

その4ヶ月後の1944年7月9日の朝日新聞では更に詳細な核分裂反応に関する記事が登場します。

朝日新聞 1944年7月9日

現大戦の直前、ドイツのある学者が放射性元素のウラニウムに中性子をあてて、原子核を爆発させる実験に成功したといふ情報をつかんだロンドン市民は、もしこれが多量にできれば、マッチ箱一つぐらゐの量でロンドン全市の潰滅も不可能ではないとし、敵の秘密兵器の正体はウラニウム爆弾ではないかと戦慄したといふ

ではウラニウム爆弾は果して将来実現するだらうか。…角砂糖大の一片五立方糎のものが燃料油の一千トンに相当し、十グラムか十五グラムもあれば大都市の一つや二つ住民もろとも爆砕するのが朝飯前で、一グラムもあれば成層圏飛行の原動力、特にロケット式飛行機悩みの種の燃料がすつかり解決する、操作はどうするかといふと火薬やガソリンに点火する代りにウラニウムに中性子を当てればよい訳だが、宇宙線に中性子が含まれてゐるので早期爆発の危険がある。そこで中性子を通さないカドミウム(鉛のやうな金属)の箱につめ、いざといふ時に覆をとり、連鎖反応を防ぐために別々にしたウラニウムを一緒にして中性子を当てればよい

…ウラニウム元素は何でも核分裂する訳でなくウラニウム二三五、二三八といふ質量のものがまざり合ってゐて、その中の質量二三五のものだけが核分裂する、これを分けるにはまだ実験室の範囲を出でず多量生産など及びもつかない。

記事からは核分裂反応についてかなり正確な知識を持っていたことが窺えます。当時は二号研究やF研究が盛んだった時期でもあり、この頃に軍や政府関係者、そしてマスメディアの一部では核分裂反応も含めた原爆のメカニズムについて理解が深まっていたと推定されます。そして原爆はドイツが先に製造するのではないかと考えられていました。

帝国議会での原子力の軍事利用に関する質問

1944年2月7日には帝国議会の貴族院において、元物理学者の田中館愛橘議員がウラニウムの軍事利用についての質問を政府に行いました。

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(田中館愛橘)

「ウラニウム」を燃料に使ひまして、それから動力を出さう、そういう企もあると聞きます。若し是が出来ましたならば、窓から飛び出せる飛行機も出来る。

また田中館議員は次のような提案も行っています。

もし1グラムのラジウムが数万年間に出すエネルギーを一時に出せる工夫が出来たならば、英国艦隊を全て打ち潰すことができる。

これに対して東條首相は以下のような答弁を行っています。

(日本は)科学技術の偉大なる力を持っているのであります。この力に目覚め、しかも進んで広く外国の長所を採り、もって世界の科学水準を突破せんと努力中であります。

東條首相は明言を避けましたが、この頃には東條首相も原子爆弾の開発についての知識を持っていたことが関係者の証言から明らかになっています。東條首相は1943年には既に原爆製造を指示したとされており、1944年には「ウランを仁科のもとに届けるように」という指示を陸軍に出していたと言われています。サイパン島が陥落し絶対国防圏が崩壊してからは、敗勢打開のため日本の原爆開発に期待が掛かることになりました。

東条内閣が退陣して以降も陸軍の二号研究や海軍のF研究は続き、福島県石川町でウランの採掘が行われましたが、ウランの採掘は難航し空襲によって理化学研究所のウラン濃縮施設も焼失したため二号研究は中止を余儀なくされます。

この経緯は以前「日本軍の原爆製造計画 ー機密資料・上海の闇市・福島県石川町ー」で解説しました。

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特殊任務機

以前の記事でも書きましたが、陸軍中佐の堀栄三らはコールサインの情報分析を通じて、マリアナ諸島にあるB-29の中に数機のワシントンに直接打電する特殊任務機が存在することを発見していました。

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(堀栄三)

陸軍特情部ではこの特殊任務機を中立国経由で入手したニューメキシコ州の新しい実験と関連づけての議論も行われていましたが、その実験が何であるかを特定できないまま8月6日に特殊任務機の発進をキャッチしました。

特情部ではこの頃から、正体不明機を「特殊任務機」と呼びだした。…「どんな特殊任務か?」第六課ではあらゆる情報をひっくり返して調査したが、「七月十六日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」という外国通信社の記事が目についただけで、あとは特殊任務機に交叉する情報は一つも見つからなかった。第六課、特情部、航空本部のそれぞれの情報担当者は、連日のように研究会議を重ねて、まさに日夜懊悩苦悩した。だが深い霧は晴れなかった。

八月六日午前三時頃、このコールサインでごく短い電波がワシントンに飛んだ。内容はもちろんいっさいわからない。コールサインからは、二、三機の編隊と判断された。

…「特殊任務機前進中」と特情部は大緊張を始めたが、捉えたのはそれだけで、以後は電波をいっさい出さなくなってしまった。

午前七時二十分頃、豊後水道水の子燈台上空から広島上空に達したB-29の一機が、播磨灘の方へ東進中、簡単な電波を発信したのを、海軍通信諜報も陸軍特情部もキャッチしたが、奇妙なことにこのB-29には後続の編隊がなかった。

(堀栄三『大本営参謀の情報戦記』)

エノラ・ゲイの乗組員の証言では、四国上空で日本軍のレーダー照射を受けて1機の日本軍戦闘機から機銃掃射を受けたと言われています。この時に迎撃に飛び立った戦闘機の機種や所属は明らかになっていませんが、当時の航空隊員の証言から屠龍であったのではないかと言われています。

8月6日夜から陸軍は連合軍の原爆製造能力の調査を開始

8月6日夜、陸軍の兵器行政本部第八技術研究所では、現地からの報告やトルーマン宣言から広島に投下された爆弾が原子爆弾である可能性が検証されていました。

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(山本洋一が戦後に記した『日本製原爆の真相』)

元理化学研究所研究員で陸軍少佐の山本洋一は連合国がどれくらいの原爆を製造する能力があるかの調査を命じられ、「敵米国ニ於ケルウラン鉱産出量其ノ他ニ就テ」という資料を作成しています。この資料は8月9日に完成しました。

敵米国ニ於ケルウラン鉱産出量其ノ他ニ就テ

昭和二〇年八月九日

第八陸軍技術研究所

一、産出量

 近年「カナダ」ノ北部(Great Bear Lake)附近テ採掘サレタルウラン鉱ハ、昭和十四年頃ニハウラン化合物トシテ年一万瓩ヲ産出セリ。之レニヨレバ「ラジウム」一〇八瓦ヲ生出シ得ル分量ナリ。  又中央「アフリカ」ノ「カタンガ」(Katanga)ニ於テハ、昭和十四年頃ニ於テ酸化「ウラン」一二八瓩ヲ産出セリ。以上ノ他、米国ニ於テハ相当量ノストツクヲ有スル見込ナリ。  以上二個所ガ「ウラン」鉱ノ最大ナル産地ニシテ、他ハ寧ロ微々タリ。

二、昭和十五年頃米国ニ於ケル「ウラン」化合物ノ価格

 (イ)黒色酸化ウラン 一瓩七弗八〇仙
 (ロ)黄色酸化ウラン 一瓩五弗一〇仙

三、原子爆弾トシテノ製造能力ノ推定

「アクチノウラン」二三五ハ、ウラン化合物中約〇・三%含有スルモノトセバ、米国ニ於テハ一ヶ年三〇瓩ノ「アクチノウラン」化合物ヲ生産シ得。  爆弾一個三〇瓩トセバ、五〇〇―一、〇〇〇個ノ作製能力アリ。然レトモ此ノ種爆弾ノ作業ハ歩留頗ル不良ナル為、上記数量ノ以下位ナルベシト予想セラル

アメリカは相当量のウランのストックがあり、およそ500〜1,000個の原爆を製造する能力があるという調査結果が報告されました。ポツダム宣言にある「日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する」が現実のものであるとして政府や軍の関係者の中で認識されるようになりました。

仁科芳雄が広島に到着

陸軍の原爆製造計画「二号研究」の主席研究員だった理化学研究の仁科芳雄は、当時の記録によると8月6日や7日午前は軍の関係者や新聞記者との面会に追われ、8月7日の午後に大本営の広島調査団に加わて広島に向けて出発するように要請されました。しかし所沢から飛び立った飛行機が富士山の近くでエンジンの不調が起きたため引き返し、再度8月8日に所沢から飛び立って広島に到着しました。

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(仁科芳雄)

この時のことを仁科芳雄は『原子力と私』という本で回想しています。仁科芳雄の著作はパブリックドメインとなっており、少し長いですが以下に引用します。

八日の夕方広島の上空に来て旋回した時、下の方を見て被害の大きいのに驚いた。空から見ると市の中心部は焼け、周囲は広範囲に亘つて壊れ、倒壊せぬ家も瓦が落ち、街には人が稀で、死の街の様相を呈していた。従来の焼夷弾の被害と異り、焼けた範囲の外側に広く倒壊家屋が存在するということは明かに普通の爆弾ではないことを示し、私はこれは原子爆弾だと断定したのである

飛行場に降りると、其処の人が体験を話してくれた。それによると飛行場は爆発の中心から三キロ米乃至三キロ米半の地点にあるのだが、朝の八時十五分頃、市の中心上空にピカッと大閃光を放つたものがあり、それと同時に光の方向に向つていた人は露出部を火傷し、そこにあつた飛行機は火を引いた。そして飛行場のそここゝに火を発し草などにも燃えついた。そしてすぐ後から大爆風がやつて来て近所の家も樹も皆押し倒したということであつた。 それからわれは自動車で宇品の宿舎に向つたのであるが、その途中人の死骸が到る処に転がつて居り、町のあちこちに死体を焼く煙が上つて居るのを見た。

…次に使用されたのが原子爆弾であることの証明を述べよう。まず被害半径の大きさから爆発力を概算すると、トルーマン声明の通り火薬万噸級のものに相当することがわかつた。一発でこれだけの破壊力を有するものは到底普通の爆弾では作れぬ。前に述べた理論の結果からして、これは原子爆弾と考えるのが至当である。

また、当時広島の日本赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなつたところからエックス線、ガンマー線のような放射線を伴うものであり、それは原子爆弾以外にあり得ないことである。

継ぐに決定的な証拠は、地上の種々の物質がラジウム類似の放射性になつていることである。後に測定して判つたのであるが、例えば人の死骸や骨、硝子についている硫黄、爆心附近の土や金属等が放射性になつている。これは原子爆弾が炸裂すると沢山の中性子(水素原子と殆ど同じ重さで全然電気を帯びていない粒子)が放出せられ、それが色々の物質に当ると放射性を附与せられるのである。又後で述べるように原子爆弾の材料であるウランやプルトニウムの原子核が分裂すると放射性の物質ができ、それが地上に降つて放射性を示す所がある。こんなことは普通の爆弾ではあり得ないことである。

更に、当時爆心の近くにいた人の白血球が減少している事実がある。これも明らかに放射線がやつてきたことを示している。エックス線やガンマ線に人体が曝されると、白血球の減少することは専門化にはよく知られたことでこれも普通の爆弾では起り得ない。

異常で広島の爆弾が原子爆弾であるという結論を下した次第であつた。

(仁科芳雄『原子力と私』)

仁科芳雄の現地調査と見解は、広島に投下された爆弾が原子爆弾であるという確証を政府や軍の関係者が認識する重要な手がかりとなりました。

昭和天皇と原子爆弾

昭和天皇には広島に投下された爆弾が原子爆弾であるという情報は当初伝えられていませんでした。8月6日夜から7日朝に掛けて、大本営は「広島に新型強力爆弾を投下したB-29と似た電波を発するB-29が沖縄を飛び立った」として、昭和天皇は大本営地下壕に避難されるように侍従長に指示していました。この避難が昭和天皇が新型強力爆弾の情報に触れた第一報であると言われています。

この時に昭和天皇は激しく怒り、侍従の岡部長章に武官長を呼ぶように言ったといわれています。昭和天皇はなぜ怒っていたのか。侍従の岡部長章は『ある侍従の回想記』の中で1940年頃に理化学研究所へ行幸された際に仁科芳雄から聞いた原子爆弾の話を思い出されたのではないかと証言しています。

御記憶の極めて良いお方ですから、八月六日夜半の「お憤り」は、米国の新型弾はそれに成功したらしい、との御判断をなさったものだと思います。八月八日の読売新聞朝刊には、当の仁科博士が、記者のインタビューに「核分裂応用のものとは思えぬ」と語られた記事が載っていました。しかし、結局それは希望的観測でした。

(岡部長章『ある侍従の回想記』)

8月7日に東郷茂徳外相が昭和天皇にトルーマン宣言を知らせました。昭和天皇はその報告を聞き、東郷外相を通じて鈴木貫太郎首相に終戦の意を伝えたと言われています。

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(御前会議が開かれていた地下壕「御文庫附属庫」の現在の様子 宮内庁撮影)

「人間にたいする被害の発表は絶対に避けること」

8月7日に大本営では関係者を集めて原子爆弾委員会を設置しました。しかしこの委員会では広島に投下された爆弾はウラニウムの威力の数分の一に過ぎず、現地での学者の調査を待たなければ原子爆弾とは断定できないという結論に至りました。

理化学研究所の仁科研究室に、は8月7日頃から次々と将校が訪問してきたという証言が残されています。田島栄三の証言によれば陸軍大佐(名前不詳)が日本刀を持って乗り込んできて「仁科先生はいるか」と大声をあげました。そして日本が原爆をつくるのにあと何ヶ月が必要かを詰問しました。当時は既に二号研究は中止されていましたが、それを話すと斬りつけられそうな勢いだったと証言しています。東京帝国大学の嵯峨根遼吉の研究室にも将校が押し寄せ、「十一月までに原子爆弾が作れないか」と詰問したという証言が残っています。

8月10日に仁科芳雄らが参加した広島での大本営調査団による現地研究会議でも、海軍の調査員がアルミニウムを過酸化水素の中で爆発させたもので原子爆弾ではないとする主張を唱えました。しかし仁科らの反論によってこれが覆され、大本営現地調査団は広島に投下されたのは原子爆弾であるという調査報告をまとめています。

現地調査団の幹事役であった陸軍中佐の新妻清一は、「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対二避ケルコト。コレ二関係スル発表モ避ケルコト」という一文を添えて「広島爆撃調査報告」を大本営に提出しました。

このため広島調査団がまとめた「一般国民二対スル発表資料」を朝日新聞が記事にしたとき、「「ウラン」原子核分裂片の有する放射能力があって或程度以上に強き場合は人体に悪影響を与ふることも考えられるので適当の注意が必要である」という残留放射線に関する記述は削除されました。また同日に朝日新聞に掲載された大阪帝大の浅田常三郎の談話記事では、放射線は「熱線可視光線および紫外線」とされ、X線やベータ線の情報は削除されていました。

参考文献

  • 山崎正勝『日本の核開発 1939〜1955』

日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ

日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ

  • 保阪正康『日本の原爆』

日本の原爆―その開発と挫折の道程

日本の原爆―その開発と挫折の道程

  • 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』

大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)

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