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【PR】相馬野馬追とユーラシア文明

   

馬の文明としての相馬野馬追

相馬野馬追と馬の文明ユーラシアの関係を考えていきます。相馬野馬追の勝手なPR記事です。

相馬野馬追の起源は今から約千年前、ユーラシア大陸の西の果てヴァイキングのレイフ・エリクソンらが遙か西の海に大陸を発見しこれを「ブドウの国」(ヴィンランド)と名付けた頃に遡ります。その頃にユーラシア大陸の東の果ての島国ではブドウ(武道)が盛んになってきていました。平将門は中央政府に弓を引き自ら新皇を名乗りました。この頃に将門が野生馬を使って行った軍事教練が野馬追の起源とされています。

相馬家はその平将門の血を継いでいると言われています。相馬家は近年人口増加が著しい千葉県流山市が発祥ですが、野馬追の伝統を現在の相馬市に持ち込みました。イスパニア王国が馬と銃で武装したわずかな手勢で大西洋を渡りインカ文明を滅ぼした頃、相馬家も伊達家に滅ぼされそうになりますが、相馬野馬追の軍事教練によって福島県の大名家で唯一伊達家と戦って生き残ることができました。

相馬野馬追をオマージュで表現するならば、「われらは、歴史を維持し、文化と文明、伝統と遺産を地上から永遠に保存しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「そのモノノフ、甲冑をまといて相馬の野に降り立つべし。失われし馬との絆を結び、ついに人々を蒼き野馬追の地に導かん」。

馬の文明ユーラシアの特性について2013年頃に考察した記事があるので、それを元に考えていきたいと思います。

馬の文明ユーラシアとアンデス文明の衝突(2013年の記事より)

アメリカ大陸では馬は1万年前に絶滅した

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アメリカ大陸のアンデス文明は、何故ユーラシア大陸の西洋文明に破れて滅亡したのでしょうか。これには諸説あり、『銃・鉄・病原菌』(まさにタイトルそのものがアンデス文明に欠けていたものですが)においては「文明は気候差の影響などで東西に伝播する速度のほうが南北に伝播する速度より速く、南北に長いアメリカ大陸は地勢的に文明の伝播に不利な状況があった」などと指摘されています。

私はそのような地勢的な状況もあった一方で、『銃・鉄・病原菌』でも重視されていてもテーマの本質ではなかった「馬」の存在の有無が両大陸の文明を分かつものであったと思います。意外と知られていない事実ですが、アメリカ大陸には馬が存在しませんでした。

正確には、紀元前200万年前〜100万年前までは北アメリカ大陸は馬の先祖の原産地だったのですが、その後の気候変動や人間による狩猟により、野生の馬はユーラシア大陸でもアメリカ大陸でもほぼ絶滅しました。アメリカ大陸では紀元前1万年頃には馬は完全に絶滅したと考えられています。

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いっぽう、ユーラシア大陸では馬はわずかに生き残っていました(馬に関する人類の最古の記録はラスコーの壁画です)。その生き残っていた馬を家畜化することに成功し、馬を手綱で引くことによって農耕に使われた形跡があります。紀元前25世紀には北アジアで騎乗が行われていた記録があり、紀元前5世紀頃から匈奴やアケメネス朝において馬が軍事力として用いられ始め騎兵が登場したことが記録として残っています。鐙(あぶみ)の発明によって乗馬技術が向上し、アケメネス朝ペルシアを滅ぼしたアレクサンダー大王の遠征も馬を中心に行われました。

日本には元々馬が存在しませんでしたが(縄文時代や弥生時代の遺跡からは馬骨に関する出土はなく、『魏志倭人伝』においても倭国には牛や馬は存在しないという記述があります)、4世紀末から5世紀にかけての古墳から馬骨や馬具の出土が確認されており、この頃から馬と騎乗の技術が日本に伝来したと推定されます。この時期はヤマト王権が地域の様々な豪族を従えて連合国家の形成を始めたと推定される時期と重なっており、乗馬技術を使いこなす王権が隆盛であったことを伺い知ることができます。もちろん、渡来人からもたらされた技術は馬だけではありませんが、馬によって広域に渡る国造りが技術的に可能になったとも考えられるのではないでしょうか。

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モンゴル帝国の成立事例を見るまでもなく、広大な国土の維持のためには、国王や政府の命令を高速に伝達する通信手段としての馬の存在が欠かせません。軍事力としても馬を用いれば更に遠くの地域への遠征が可能です。実際、歴史上の文明で広大な版図を維持できたのは乗馬可能な地域に位置している文明が多いです。とりわけ馬が高速に走行できる平野の草原地帯が広がっている地域です。もちろん高原や海流ネットワークの中に発達した文明もあり、その価値は近年見直されてきていますが、確固とした国境線がなく、軍事技術も発達しませんでした。

馬に乗って急速に走行する技術の発達から、車輪の普及も行われたと思われます。ユーラシア大陸における車輪の歴史は騎乗の歴史より古く、紀元前二千年以上過去に遡るのですが、馬と車輪の技術が結合することによって、極めて高速に大量の物資を輸送することが可能になりました。車輪の技術だけでは道路が整備されることはありませんでしたが、馬に車輪を引かせることによって道路の必要性が生まれ、ユーラシア大陸の各都市が道路によって結ばれるようになります。馬が存在しなかったアンデス文明においては、車輪の原理を発明することが出来ませんでした。子供の遊び道具の埋葬品から、原始的な車輪を使った物体を使用していたことは近年確認されたのですが、車輪が国家レベルで技術として活用されることのないまま、ヨーロッパ人の来航を迎えることになります。(2013年に書いた記事より抜粋)

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馬と鉄の文明の東部戦線としての宇多郷

そんな壮大なユーラシアの歴史を感じながら相馬野馬追を見学することをお勧めします。今年の相馬野馬追は7月29日〜7月31日です。相馬地方(宇多郷)に相馬家が移り住んで野馬追が始まったのは鎌倉時代からですが、宇多郷には古代から既に馬の文明が存在しました。相馬の古代遺跡からは馬の埴輪や馬具なども多数出土しています。宇多郷が蝦夷と戦う前線基地であったのも大きく影響していると思います。相馬の製鉄遺跡では日本最古級の「たたら」製法の製鉄所が出土していることも以前記事にしました。古代から中世に掛けて相馬の地はユーラシア大陸における馬と鉄の文明の東部戦線でもありました。

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明治時代になって近代化を果たし寒冷地でも活動できる技術を手に入れた日本は蝦夷地の開拓に乗り出します。この開拓によって北海道各地に相馬神社が建てられました。北海道の中札内村と伊達市には相馬神社が存在し、置戸町には置戸相馬神社が、壮瞥町の久保内神社には相馬妙見神社が合祀されている久保内神社があります。豊頃町の長節神社の祭神は相馬妙見と稲荷大明神です。

北海道に馬の牧場は1805年に箱館奉行の戸川安論が有珠・虹田に開設したものが最初と言われていますが、本格的につくられるようになったのは明治時代になってからのことです。アメリカの開拓をモデルに広大な耕地を維持するために馬が積極的に使われました。それと共に馬に関する祭祀が持ち込まれ、北海道各地で相馬神社が設立されることになりました。ユーラシアの馬の文明の東端が北海道にまで伸びた時代です。そしてこの時に北海道の相馬神社を通じてアメリカ合衆国の開拓文化との結合が行われました。

そんな歴史を感じながら相馬野馬追を見るとまた違った楽しみも出てくるかと思います。

相馬野馬追のPR動画が完成しました

南相馬市の公式YouTubeチャンネルに昨日、相馬野馬追のPR動画が3つアップされました。

威風堂々編

荘厳な音楽に合わせて騎馬行列のカットを多めに盛り込み、野馬追のきらびやかさを表現した威風堂々編です。

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躍動編

疾走感ある音楽とカット割りでそのうち、テロップで行事の流れや概要を学べる躍動編です。

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観光案内編

テロップで行事の流れや概要を学べる観光案内編です。

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ヨッピーさん

過去にはヨッピーさんも相馬野馬追に見に来ています。

www.e-aidem.com

律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

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