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「東北」という呼称が誕生したのはいつ頃か?

   

「東北」の呼称は自由民権運動から普及した

靑森・秋田・岩手・山形・宮城・福島の6県は東北地方と呼ばれます。かつては「奥羽」「奥州」古くは「みちのく」とも呼ばれましたが、これが「東北地方」と呼ばれるようになったのは何故でしょうか?

近年の史料研究では「東北」という呼称が普及したのは自由民権運動が大きく影響したと考えられています。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟は新政府軍と戦って敗北しました。奥羽は賊軍の汚名を着せられ敗戦処理に追われるまま明治維新を迎えることになりました。藩閥政治の中で奥羽の士族は政治参加が認められず、政府が派遣した役人によって支配される状態が続きました。

しかし、そのような奥羽の地にも自由民権運動が湧き起こります。自由民権運動は不平士族が蜂起した西南戦争に大きく影響を受けた運動で、旧西南諸藩による藩閥政治を批判して民選議院の設立を目指すものでした。自由民権運動の活動家には奥羽出身者や奥羽に拠点を置く政治結社が多数参加していました。彼らは西南への対抗概念として「東北」を積極的に使い、東北を自由の地とすることや、東北から日本を変えていくことを喧伝しました。

このため日本の地方分類では「東北」は唯一民間からの提唱によって新しく呼称された地方名とされています。「九州」「四国」「中国」「関東」「甲信越」(北陸)は旧来の地名で、「近畿」は旧来の「畿内」から転じた官製地名、「中部」は地理の教科書によって登場した官製地名、「北海道」も蝦夷地から改名した官製地名です。

ここでは「東北」の誕生を解説していきます。

戊辰戦争に敗北した奥羽は明治維新で「未開の地」とされた

近世において「東北」という名を冠した文献は、薩摩藩士・肝付兼武『東北風譚』や吉田松陰の『東北遊日記』など天保年間以降の幕末期に登場するようになります。公文書として東北が使われるのは1868年に秋田藩主・佐竹義堯に下賜された内勅が最初です。ここでの「東北」は東日本一帯を意味する言葉で現在の東北の意味ではありませんでした。

明治維新の進展によって東北へのステレオタイプも生まれてきました。戊辰戦争での奥羽越列藩同盟との戦いは、奥羽諸藩が旧態依然とした考え方を持っていたために起きたものであり、奥羽越列藩同盟の敗北は奥羽が「未開の地」「遅れた地」であったことに起因するという文明論的な認識が広まることになります。このため東北は未開の田舎であると嘲笑する言説が多数出てくることになりました。以下は明治9年の新聞社による東北各県への言及です。

青森県
『靑森は諸州船舶の多く出入りする所なれば素より淫乱の風あれども、近来に至ては風俗ますます醜悪に流るること甚し』(東京日日新聞)

秋田県
「昔から淫奔の甚だしき処」であり、堕胎の習俗がいまだ残っており、人民は概して「頑愚」である。(東京日日新聞)
「土民遊惰にして活潑の気象に乏しく」「人智開けず物産興らず」「習俗未だ去らず残夢未ださめず」(郵便報知新聞)

山形県
「男子の頭髪区々にて結髪坊主頭多く断髪は十人に一人なり」(郵便報知新聞)
「管内人民悉皆開明の域に至らざる故開化の者稀にして、頑固の十中八九」(東京曙新聞)

若松県
「市中の家は元より甚だ粗にして汚穢し、辻便所は漸く止みたり」「最はや男女入込の湯屋は無く成りたれども、甚だ不潔なるを如何せん」(東京日日新聞)

紀行文では明治14年に関西財界のリーダーであった広瀬宰平の『東北紀行』があります。ここでの「東北」は北海道も含んでいますが、広瀬はこの紀行文において、東北各地では外見上は男女の区別が付かず、方言を「土人の蛮説」と呼んで解することができなかったと述べています。さらに東北の食事を「飯色土の如き」と評して失笑したと酷評しています。

このような認識は明治政府が派遣した地方官にも現れていました。明治9年の明治天皇の東北巡幸の際、東北各県の地方官から事前に報告された風俗景況においては、福島県の人々は「牛馬と寝を同じくし」「殆んど人類の養ひに非る」生活をしていると報告されていました。岩手県も「鶉衣、垢面、汚濁を厭はぬ」暮らしであり、「蝦夷と分ち難い」 とされました。

自由民権運動と「東北」アイデンティティ

明治維新によって日本でも新聞が発行されるようになりました。東北六県で最初の新聞は明治5年の『若松新聞』であったと言われています。この後に宮城県で東北の名を冠した『東北新聞』が創刊されます。ここでの東北とは東日本一帯を指すものであったと思われますが、東北新聞は権力と対立するようになり、創刊者の須田平左衛門は逮捕拘留され死亡しました(死因は自殺であると発表されました)。自由民権運動の高まりの時に、この須田平左衛門を自由民権運動の先駆けと捉える人々も多くいました。この『東北新聞』が民間における「東北」の初の使用例であったと言われています。

明治11年には東北でも自由民権運動が高まり、仙台で「東北有志会」という政治結社が結成されました。明治13年には「東北七州連合会」が結成されて、これが東北六県(当時の陸奥・陸中・陸前・磐城・岩代・羽後・羽前)を「東北」と呼んだ初めての事例であったと考えられています。

東北七州連合会は明治14年に「東北七州自由党」に改名されました。この東北七州自由党は日本で初めて「自由党」の名前を冠した政治結社でもありました。東北の自由民権運動の活動家らは、西南諸藩による藩閥政治を批判し、その対抗概念として東北を用いました。今まで朝敵や未開の地とされてきた奥羽のイメージを払拭し、東北から自由を実現させるという理念に基づくものでした。ここには権力に抵抗して非業の死を遂げた須田平左衛門を強く意識したものもあったとされています。この後、「東北改進党」「東北議政会」「東北自由新聞」など東北を冠する自由民権運動の名称が多数出てくることになります。

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(自由民権運動の重要人物・河野広中の銅像 福島市)

自由民権運動以外の「東北」呼称

明治24年に日本鉄道会社の上野ー靑森間が開通しますが、この路線はしばらく「日鉄線」「奥州戦」と呼ばれていました。明治42年に東北線の名称が採用されています。しかし、明治20年頃には民間において「東北鉄道」「東北線」という呼称が使われていました。

一方、地理教育分野では東北の呼称はあまり使われていませんでした。明治32年の『帝国地理教科書』では全国を北州区(北海道)、本州東区(東山道・北陸道・東海道)、本州西区、四国区、九州区に分けていて、東北という呼称は登場しません。明治34年の『帝国物産地理』では東北地方という呼称に奥羽、関東、甲信越を含めていました。明治15年に出版された歴史の教科書『校生 日本小史』では日本列島の地理を以下のように記述しています。

我が大日本國は、亜細亜洲の東海の中にあり、中州最も大くして、西南二九州(古名筑紫)四国のニ大島あり、又北にある大島を北海道(古名蝦夷ケ島)といふ、其外、周囲に、淡路佐渡隠岐萱岐封馬沖縄等の島々、尚、数多あり、諸島の位置は、西南より長く延びて、東北に連り、西南の地は暑くして人口最も繁く、東北の地は、寒くして人口甚だ少し、民の開化も、頗る早くして、亦其初は、西南より開けて、後こ漸く東北に及べり

「西南」と「東北」が対比されているように、東北は東日本を指す漠然とした概念でした。しかし寒冷であると記されていることから、東北地方と北海道を指したものと考えられます。地理の教科書においては、明治32年の『日本地理』でも明治33年の『小学地理補習』においても「奥羽」という呼称を使っていました。地理教育における奥羽の呼称は第2次世界大戦まで根強く使われています。

明治33年には九州東北帝国大学設置建議案が帝国議会で採択され、九州と東北に帝国大学が設立されることが決まりました。ここでは奥羽ではなく東北の呼称が使われています。しかし、東北帝国大学は北海道にあった札幌農学校を東北帝国大学農科大学として編入しており、仙台以外に北海道にも校舎を持っています。東北帝国大学が北海道にも校舎が存在する状態は、大正7年の北海道帝国大学への移管まで続きました。

東北というアイデンティティ

戊辰戦争の敗北によって奥羽は未開地というステレオタイプが形成されることになりました。政治参加を許されなかった奥羽の士族や知識人は自由民権運動を支える原動力となりましたが、そのアイデンティティとして西南諸藩に対して「東北」という軸を打ち出し、これを積極的に使っていくことになりました。それが新聞や雑誌などを通じて東北のみならず全国へ普及していき、明治の終わり頃には東北という呼称が浸透し始めることになります。しかし必ずしも東北の呼称が一様に広まったのではなく、奥羽の呼称も一部で根強く使われていました。

また、東北という呼称が普及して以降も、東北は未開の地であるというステレオタイプは戦後まで根強く残りました。以下は、宮城県石巻育ちのマルクス主義歴史学者・石母田正が著した『歴史と民族の発見』における東北に関する言及箇所です。

東北は「もっとも古い型の封建制が支配する後進的な辺境」であり、縄文時代をのぞけば「歴史を通じて中央の文化の植民地」」であった、「天皇絶対主義による封建的東北の征服と支配がいかに過酷なものであったにせよ…維新以後、東北が封建的支配を脱して、統一的な日本国民の形成という大きな進歩的運動にまきこまれた」ことは高く評価するべきであり、「東京方言が東北地方の方言を駆逐していく過程」もまた「歴史の発展の無慈悲さ」なのである

東北の呼称が広がるもう一つの重要なきっかけであった飢饉についてや、東北の言論空間の変容、新潟県が微妙な立ち位置となった経緯についてはまた今度書いていこうと思います。

参考文献

  • 岩手大学教育学部研究年報第55巻 米地文夫・今泉芳邦・藤原隆男「近代国家形成過程における地名「東北」」
  • 岩手大学教育学部研究年報第57巻 米地文夫・今泉芳邦・藤原隆男「新聞・雑誌名「東北」にみる明治期の東北地域観」
  • 河西英通『東北 つくられた異境』中央公論新社

東北―つくられた異境 (中公新書)

東北―つくられた異境 (中公新書)