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仙台藩とイスパニアとの軍事同盟説と禁教政策

   

十字切りましょアヴェマリア サンタマリアよ護りませ

1613年、伊達政宗の命を受けて仙台藩士・支倉常長らの遣欧使節団が月ノ浦を出航。ノビスパニア(現在のメキシコ)へと向かいました。使節の詳細な目的はまだ完全には明らかになっていませんが、仙台にカトリックの奥州司教区を創設する代わりに、イスパニア(スペイン)・ノビスパニアとの交易交渉を行うことであったと推定されています。

使節団はノビスパニアから大西洋を渡り、イスパニアのマドリードで国王フェリペ3世と謁見しました。国王や貴族らの列席のもとで支倉常長らは洗礼を受けカトリックに改宗しました。さらにローマへと辿り着き、ローマ教皇パウルス5世に謁見しています。

しかし日本では遣欧使節団が出発した翌年の1614年に全国に禁教令が出されキリシタンの大弾圧が始まっていました。この弾圧の報告は既にバチカンにも届いており、遣欧使節団は司教区の創設を許されず交易交渉も成果が出ないまま日本へと帰国することになりました。

この仙台藩の遣欧使節団については江戸時代の学者の間でイスパニアとの軍事同盟を結び江戸幕府を倒す計画としていたのではないかという説が出ていました。現在もこの説を支持する人達がいます。今回はその軍事同盟の可能性と、伊達藩で行われた禁教政策について書きます。

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(『ファシクラ伝』 誌は刈田仁「政宗さま」)

宣教師ソテロは伊達政宗が次の皇帝になると説いた

遣欧使節団は宣教使ソテロを正使としていましたが、ソテロは奥州に司教区が設立されたら司教に任命されたいと考えていました。ソテロはイスパニアやバチカンにおいて、伊達政宗が次の皇帝(将軍)に就任する可能性があり日本にカトリックの国をつくろうとしていると説きました。そのためソテロが翻訳・作成した文書には彼の創作が入り込むこととなりました。

ソテロは日本滞在経験のあるイスパニア貴族ドン・ロドリゴと共にイスパニア国王への手紙を作成しています。この手紙ではイスパニアが日本を統治することが望ましいとしながらも、日本の軍事力が強大であるため布教によって日本を従えることを進言する内容が含まれていました。

日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は困難です。福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかありません。

ソテロが翻訳して作成した伊達政宗がローマ教皇に宛てた親書でも、次のように伊達政宗自身がキリスト教に改宗する意思があると書かれていました。

私の国にフランシスコ会派のソテロ神父が、尊いキリスト教の布教に入った折に、キリスト教信徒の様子とデウスの教えを聞きました。そのことについて思案しましたが、大切な、誠の定めの道であると、受け止めました。

従いまして私もキリシタンに帰依したいと願うところですが、今のところは差し障りがあるために、まだ実現できません。しかしながら、私の国ではすべての領民がキリシタンになるように勧めますので、フランシスコ会の宣教師を派遣していただきたいのです。

どのような方以上に聖下は大切なお方と心得ます。宣教師に関するすべてについて力添えをいただいて派遣くだされば、その宣教師たちには教会堂を建て、世話をします。領国において尊いデウスの教えを広めるために、必要と思われることを定め、託してくださるように。また、宣教師たちとは別に、司教に当たる人物を一人決めてともに派遣していただきますように。

日本のキリシタンがローマ教皇に宛てたの連書状でも奥州の王(伊達政宗)が新しい支配者(将軍)になるよう願っているとする内容が含まれていました。

今年になってから新たな迫害が将軍によって引き起こされました。  偉大な教父よ、神が奥州の王を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者になることを期待しております。

ソテロが作成したこれらの文書は遣欧使節団の交渉に混乱を招くことになりました。イスパニアやバチカンでは奥州王が次の皇帝の座を本当に狙っているのか疑いを掛け、ソテロや遣欧使節団への不信感となっていきました。日本でのキリスト教弾圧の情報と共に遣欧使節団の交渉が失敗する要因となりました。

仙台藩による謀叛を記した文書

しかし、このようなソテロの文書が彼の創作だけとは限らないのではないかと考えられる史料も見つかっています。

日本で布教活動を行っていたジェロニモ・デ・アンジェレスがローマのイエズス会本部総長へ宛てた書簡が発見されました。アンジェレスはソテロが司教の座を狙う野心を持っていると告発した人物です。彼の書簡では遣欧使節団について次のように記されています。

支倉が無事に日本に戻ってきたことを知った。政宗はテンカドノに対する恐れから領内のキリシタン迫害を始めた。テンカドノは政宗がイスパニア国王に派遣した使節のことを知っており、政宗はテンカ(tenca)に対して謀反を起こす気であると考えていた(アンジェレス書簡)

テンカドノは将軍・徳川秀忠か徳川家康を指すものと思われます。遣欧使節団の目的が将軍家に逆らい謀反を起こすものであると報告しています。

また仙台藩からは『東奥老子夜話』という書物が発見されています。この文書は仙台藩士が四代目の仙台藩主・伊達綱村の時代に藩に残る古い文献を取りまとめたものとされています。東奥老子夜話には御内試(図上演習)としながらも大坂の陣以降に幕府軍が仙台へ侵攻してきた場合の迎撃計画が書かれていました。

元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候。

大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。

仙台川(名取川)を堰き止めて仙台平野を水浸しにして幕府軍の進撃を阻止し、狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃。さらに背後からは浪人や一揆勢で攪乱して幕府軍を敗走させ、江戸まで一気に攻め上がる計画です。もし迎撃戦に失敗した場合は伊達政宗が松島で自刃することも考えられていました。

この内容がどのような経緯で作成されたものなのかはまだ分かっていません。しかしアンジェレス書簡や東奥老子夜話からは仙台藩では幕府への謀叛や幕府軍との戦いが検討されていたことを伺い知ることができます。そして将軍家はこの計画を察知して警戒していたと思われます。

仙台藩でも禁教政策が始まる

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(元和の大殉教図)

禁教令が出た頃の日本のキリスト教徒の人口はおよそ30万人と言われています。仙台藩では禁教令が出てからもキリシタンに寛容な政策を採っていたため、全国から迫害を逃れた大勢のキリスト教徒が集まってきていました。しかし遣欧使節団が帰国する前後から仙台藩でも熾烈な弾圧が開始されることになります。

奥州のキリスト教徒がローマ教皇に宛てた連署状がバチカンに残されており、仙台藩による弾圧の開始が次のように記載されています。

去歳上旬の比、伊達政宗、天下を恐れ、私の領内におゐて、へれせきさんをおこし、あまたまるちれす御座候。御出世以来千六百廿年せてんほろの廿日よりせんさく仕りはじめ

御出世以来千六百廿年とはキリストの生誕より1620年、つまり西暦1620年を指します。これは遣欧使節団が日本に帰国した年です。この時期に仙台藩でキリシタンの大弾圧が始まったと告発されています。

イエズス会への書簡を記したアンジェレスは、領内のキリシタンは全て仏教徒への改宗を迫られ、従わない場合は武家の場合は追放、町民や百姓の場合は処刑されたと伝えています。キリシタンの情報を密告した者には金銭が払われ、領内の宣教使は棄教しなければ全て追放処分となったとされています。

支倉常長は帰国の2年後に死去していますが、家臣もキリシタンであった疑いが掛けられ嫡男が処刑されて支倉家は断絶しました。遣欧使節団を率いたソテロも長崎に潜伏しているのを捕らえられました。伊達政宗はソテロの助命を嘆願しますが適わず、火あぶりとなって処刑されました。

日本の禁教政策では当初はキリシタンを殺害していましたが、殺害すると殉教者となり神聖化されることから、生きたまま拷問に掛けることによって棄教させ見せしめとする政策へと転換していきます。仙台藩でも記録に残っているものでは1622年にキリシタンであった領主・後藤寿庵と宣教師カルワリオの殉教があります。彼らは信徒約60人と共に仙台藩の下颪江にある金山の洞窟に潜伏していましたが発見され、冬の広瀬川の溜池でつくった水牢に入れられて棄教するように迫られます。棄教を拒否し続けたため凍死し、遺体は切断されて広瀬川に流されました。

記録によれば仙台藩による隠れキリシタンの摘発は、1637年の島原の乱を鎮圧して以降も続き、明暦年間(1655〜57年頃)にも行われたとされています。

謀叛の疑いと禁教政策

仙台藩がイスパニアとの軍事同盟を締結しようとしていたかどうかは明確な史料はまだ出てきておらず判明していません。禁教政策の中で仙台藩にとって不都合であるため廃棄された文書も多数あると思われます。

しかし遣欧使節の文書・奥州の宣教使の文書・伊達家の史料から仙台藩が幕府に謀叛を起こす可能性を検討していたことを窺えるものが出てきています。そして仙台藩で禁教政策が開始されたのは遣欧使節団が帰国した頃と重なります。

幕府側からも仙台藩がイスパニアと手を組んで謀叛を起こすものと疑いを掛けられ、仙台藩は遣欧使節団の到着に前後してその疑いを晴らすために熾烈な禁教政策を開始したのではないかと思われます。