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もののけ姫の「たたら」の起源は相馬地方

   

もののけ姫に出てくる「たたら」

映画「もののけ姫」では「たたら場」と呼ばれる製鉄所が登場します。数人の人が「ふいご」を足で踏んで炉に空気を送っていたシーンを憶えている方も多いと思います。

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「もののけ姫」は室町時代後期が舞台とされていますが、この踏みふいごがいつ頃に日本で実用化されたかご存じでしょうか。現在の研究では古代の相馬地方ではないかと考えられています。

東北地方最古の製鉄炉と踏みふいご

福島県の浜通りでは200カ所以上の製鉄遺跡が発見されています。その多くが相馬市・南相馬市・相馬郡新地町に集中しています。

相馬郡新地町の向田遺跡からは7世紀と推定される製鉄遺跡が出土しており、東北地方最古の製鉄炉とみられています。この製鉄炉で採用されている箱形炉の形式は近畿地方や中国地方に類型があり、西日本から伝わった技術と思われます。

その後、8世紀後半になると向田遺跡から竪型炉が出土します。この竪型炉は西日本には類例が無く東国で成立したものと言われています。相馬地方の竪型炉では送風装置に「もののけ姫」にも出てくる踏みふいごが使われていました。相馬市の猪又遺跡からは踏みふいごが箱形炉に応用されていることも確認されています。

相馬の製鉄遺跡群では当初は西国の技術が用いられ、その後は西国と東国の技術の両方を用いて製鉄を行っていたことが覗えます。

踏みふいごに関しては正確な年代が特定できていないですが現時点で相馬地方の遺跡が日本最古級と考えられます。踏みふいごが登場する最古の文献は10世紀の『倭名類聚抄』(934年)で、日本書紀にもある吹きふいごと区別して踏みふいごを「たたら」と呼んでいますが、その約2世紀前から相馬地方には踏みふいごの技術が存在していたことになります。

相馬地方の製鉄所遺跡の出土品については以下のPDF資料に詳しく解説されています。この資料でも相馬地方の金沢遺跡(南相馬市)と武井遺跡(相馬郡新地町)が踏みふいご実用化の先駆けではないかと書かれてあります。

http://www.infokkkna.com/ironroad/2013htm/2013iron/13iron11.pdf

三十八年戦争と手斧の供給拠点としての相馬

774年に蝦夷が桃生城(宮城県石巻市)を攻略します。朝廷は大伴駿河麻呂に蝦夷征討を命じ、以後811年までの蝦夷と朝廷との戦いは三十八年戦争と呼ばれています。相馬地方で踏みふいごが導入されたのはこの頃にあたります。

蝦夷は伊治呰麻呂が反乱を起こした際に多賀城を占領、アテルイの率いる蝦夷の軍勢に朝廷の征討軍が大敗して潰走するなど、朝廷側は苦戦を強いられます。この三十八年戦争は坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられて蝦夷征討に着手するまで続きます。

当時の軍制を記した軍防令では、手斧・大刀・小太刀・鎌などを装備するように定められており、相馬地方の製鉄所はこれらの鉄器の一大供給拠点であった可能性が高いと思われます。

多賀城からは「宇多東丸」「宇多田」「宇多利」など相馬の古来からの地名である宇多郷の名前を冠した木簡や土師器が多数出土しています。多賀城には宇多群の出張所が置かれていたと見られています。

製鉄所の終焉と環境破壊

相馬地方の製鉄所は9世紀後半を最後に終焉します。この頃は朝廷が蝦夷の元慶の乱を鎮圧した時期で、東北での朝廷の支配がほぼ完了した頃と重なります。

この頃には相馬地方の製鉄所や住居は内陸部や丘陵へと大きく移動していました。森林伐採が進んだため木炭燃料が枯渇し、木材を求めて内陸へと拠点を移していったとみられています。

参考文献

律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)