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福島市が県庁所在地なのは奥羽越列藩同盟が敗北したため

   

福島藩は3万石の小藩だった

福島県の県庁は福島市に置かれています。しかし、なぜ明治時代に福島市に県庁が置かることになったのかを説明できる文献はほとんど存在しません。

福島藩が養蚕業で栄えていたためとする資料はあります。確かに養蚕業はありましたが、福島藩は石高3万石の小藩でした。福島県中通りは明治時代に安積疎水が完成するまで農地には適さず荒涼としていました。そして旧福島村は福島県のかなり北の方に位置していて、交通の要衝で選ばれたわけでもありません。

福島村が福島の県庁所在地に選ばれたのは戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が敗北したためです。

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(江戸時代の福島県内の諸藩の配置。磐城国の北部は現在の宮城県に編入されました)

福島藩は松山板倉家の分家が統治していた

江戸初期には関ヶ原の戦いで敗北した上杉家が統治していましたが、上杉家に子供ができないまま当主が急死したため断絶の危機が起きました。養子を迎えることで上杉家は存続を許されましたが、福島城周辺が幕府に没収されることになりました。

この際に備中松山藩の譜代・板倉家の分家にこの土地が与えられ、1702年から幕末に掛けて板倉家が福島藩3万石として統治することとなりました。福島板倉家の江戸城の伺候席は雁間詰めです。外様であった相馬家6万石が帝鑑間詰であったことと対照的です。

福島藩には会津征討の軍事局(本陣)が置かれた

幕末に福島藩は江戸市中の取り締まりを命じられていましたが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗北するといち早く新政府軍に恭順の使者を送りました。その後、江戸城の無血開城と上野での彰義隊の鎮圧を終えた新政府軍は福島藩に会津征討を指令します。

福島藩は新政府軍の奥羽鎮撫総督参謀・少将醍醐忠敬を迎え入れ、福島城下の長楽寺に鎮撫総督府の奥羽軍事局(本陣)が設置されました。

奥羽鎮撫総督府の下参謀であった長州藩士・世良修三の横柄な振る舞いに反感を抱いた福島藩士が、世良が大山参謀へ宛てた奥羽はみな敵であるとする手紙を仙台藩士に密告します。激昂した仙台藩士と福島藩士が世良を襲撃して捕縛し、阿武隈川の川原で斬首しました。

奥羽越列藩同盟の軍事局と福島藩の降伏

このような事態を受けて奥羽越列藩同盟が結成されて、新政府軍と対峙することとなりました。福島藩も佐幕派に転じて列藩同盟に加わることになります。今度は逆に奥羽越列藩同盟の総督府(小笠原長行総督)の軍事局が福島藩の長楽寺に設置されることとなりました。

新政府軍が二本松藩を攻略すると福島藩主の板倉勝己らは福島城を捨てて米沢方面へ逃走します。福島城は残った藩士によって降伏と開城を申し出ました。この時に仙台藩士による襲撃隊が結成され(烏天狗組)、福島城下に火を放っています。町火消しらが応戦しましたが、襲撃によって346軒が焼失しました。

その後、福島藩も降伏して福島城は新政府軍の大村藩・渡辺清左衛門が預かることになりました。板倉家は福島藩の領地を没収され、三河国の重原に転封となりました(重原藩)。

相馬の民政局の管轄となって福島藩は消滅した

戊辰戦争後に福島県で所領を安堵された大名家は、中村藩(相馬家)・守山藩(松平家)・三春藩(秋田家)の3家のみでそれ以外の藩は全て領地を没収されました。福島藩の領地は相馬中村藩に設置された中村民政局取締所の管轄下に置かれることになり、福島藩は消滅します。

しかし、その後に管理の地理的な都合から福島民政局が成立して、旧福島藩や旧二本松藩の民政を管轄することになります。それが廃藩置県で福島県(第1次)となり、その後の合併で二本松県に改名しました。二本松県は合併を経て再び福島県(第2次)に改名します。この第2次福島県(現在の中通り)が磐前県(現在の浜通り)や若松県(現在の会津)と合併することで現在の福島県(第3次)となりました。

福島村は軍事の象徴・会津の排除

第2次福島県・磐前県・若松県が合併した時にどのような経緯で「福島県」(第3次)の県庁が福島村に置かれることになったのでしょうか。

福島村の力関係が絶対であったわけではありません。いったんは相馬藩の管轄となり、二本松県となっていたりすることからも分かるように経緯が大きく揺れています。しかし、旧福島藩は新政府軍も奥羽越列藩同盟も軍事局を設置した軍事的な象徴でした。そして明治のいずれの合併でも必ず行われているのが会津の影響の排除です。

地理的な要因で若松県が成立していた時期がありましたが、ごく短期間で福島県に吸収されています。相馬中村藩も戊辰戦争で新政府軍と戦ったため、仙台藩との藩境(駒ヶ嶺)が南部藩の管理となっていた時期があります。磐前県は岩沼や亘理などもっと北に長かったのですが、その部分は宮城県に編入されることになりました。

「福島県」のアイデンティティと発展

磐城国と岩代国を統合した県が3万石の小藩であった福島藩の名を冠することによって、県のアイデンティティは新政府軍寄りだった「福島」になりました。そして福島村に県庁が置かれることになったため、交通網も福島村を起点として整備されることになりました。その後、明治40年に福島でも市制が施行されて福島市が誕生します。不平士族を集めた安積疎水事業が完成することで中通りは急速に発展して郡山市も成立しました。

雄藩であった会津は磐越西線の彼方へと押しやられ、会津若松市がかつての賑わいを取り戻すことはありませんでした。会津は白虎隊の悲劇・野口英世・味噌・喜多方ラーメンの地となりました。

福島に込められた近代日本の恨み

福島に県庁があることは近代における東北の敗北と恨みの象徴であると言えると思います。この屈折したアイデンティティがフクシマにはあります。

戊辰戦争がなければ会津県の県庁は会津若松市に置かれていたと思います。奥羽越列藩同盟が進めていたプロイセンとの同盟交渉に成功して、輪王寺宮公現法親王を東部皇帝に擁立できていたら、北日本の首都は仙台か会津になっていたでしょう。