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はてな村定点観測所

汚物は消毒だ〜!

文学って何だろう?

文学とは何かイマイチ分からない

国語科の塾講師もやってきたし、読書が趣味ではあるけど、「文学とは何か」と聞かれるとけっこう返答に困る。

目的や歴史的な位置づけがはっきりしている「哲学」とは何であるかを説明するよりも難しい。

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(『編集王5』)

小説だけが文学ではなく、シェイクスピアの『マクベス』やドストエフスキーの『罪と罰』だけが文学なわけでもない。それらの作品について解釈していくことも、解釈学や修辞学の一部であり、より突き詰めて考えればテクスト論の一種として考えることも出来るだろう。

作者の意図は必ずしも重要ではない

「コンテキスト」を読むことがはてな村では重要だ。国語の入試問題でも作者の心境を表すものがどれかを選択する問題が多数出題される。

でもテクスト論においては作者のコンテクストは必ずしも重視されない。

「作者の死」
  
文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。
西研『知恵蔵2007』

私達は作者の意図から離れて作品それ自体を自由に解釈するべきだ。それが作者本来の意図から離れたものであったとしても。

作者の意図の支配から逃れたポストモダン以降の文学は、それでは何を拠り所とする文化的価値を持つものなのだろうか。

それは熱病のようなもの

文学を語る時に表現や技巧にこだわる人が多いが、それは修辞学に分類されるものであり、文学は高度な比喩や巧みな文章表現がなくても成立しうる。

私は文学の本性を人に説明するときに、「文学は熱病のようなものです」と人に説明することがある。

現代における文学はインターネット時代のテキスト文化においても、人の心にグサリと刺して人を熱病のように動かす文章を指すと思う。プロパガンダやプロレタリア文学との峻別が難しい部分ではあるが、優れた文学作品は表現技巧の世界を越えて世の人々の心を動かす作品を指すのだと思う。

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(『編集王5』)

だからこそ人々は一時期、社会を動かすのは政治ではなく、文学であり演劇であると信じることができたのだろう。

広島後の世界は若干意味合いが異なる。人の心がいかに文学で突き動かされようと、私達は核兵器の前には無力だ。全面核戦争が起きれば文学は跡形もなく消えて、人間が言葉や馬や銃を使いこなす惑星にテイラーは降り立ち、禁断の地で真実を見てしまうのだろう。

核兵器の登場は文学の無力を露呈してその価値を吹き飛ばした。資本主義の享楽の中で楽しむ表現技巧が文学であるような錯覚を抱かされるに十分な効果があった。

インターネットがトドメを刺す前から文学は既に死んでいたのだ。

希望としての文学

それでも文学に価値があるとすればそれは何なのか。私は文学に全ての救済を求めるつもりはないが、希望の1つではあると信じている。

それが例え文章でもって人を欺くものであったとしても、その文章に心を打たれてなにがしかの気持ちを抱いた君は確かにこの時・この場所に存在した。

私はそんな希望の灯火としての文学の力を信じている。それは最早かつての輝きは薄れ、ゴルゴダの丘で「本当の救い主ならば世界を救ってみせよ!」と人々が嘲笑うほどに小さな希望であるのかもしれない。でも、そんな時代においても文学に心を打たれて夢や希望を抱く人は確かに存在するのだ。

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(『編集王5』)

大きな物語が潰えた後の文学の再建

平安朝貴族は死ぬほど暇だった。だから彼らは源氏物語のような高度な変態文学を生み出すことができた。武家は文武両道を美徳として平安朝貴族ほどには余暇が存在しなかったので、武家は1000年に渡りこの国の支配階級・知識階級でありながら優れた文学作品はなかなか生み出せなかった。

戦後の一時期に「進歩的知識人」を自称する人々と彼らに駆り出された豊かな社会を信じる人々によって、文学が大衆の希望となった時代があったことは事実だ。

しかし、それは核戦争の幻影に怯え、一億総中流の時代など実は幻想に過ぎなかったことが明るみになった今、私達は戦前の「大日本帝国」や戦後の「戦後民主主義」に代わるような新しい大きな物語を生み出せず、ロスジェネ世代の文学も閉塞とした状況が続いている。

大きな物語の解体が進む時代にあって人々の共感を生むような作品が世に出ることは難しい。『永遠の0』のように過去の物語の栄光に回帰するような学習能力が永遠の0な作品を人々が懐古趣味で読むことはあっても(それが本来の回顧とは異質のものであっても)。

そしてそれを希望であると錯覚する人々が生まれ続け、大衆の他意のない善意こそが自らが抑圧者であり続ける条件になろうとしている。

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文学に希望を見出すことが難しい時代に私達は生きている。

もはや文学は人に啓蒙を説けるような魅力は色褪せてしまって、人々の自発的な気づきを待つしかない。だからといって、その全てが悲しみと無力に包まれているほど私は悲観的な認識は持たないように心掛けている。

表現ではない。そこに現れた虚構だけど真実を鋭く突くストーリーが、新たな感動を生み出すことに対して一縷の希望は捨てずに持っていたいと願う。